"Non-Alcohol Dependence" #2 By Suzumo Sakurai
ノンアルなんて、飲めないヤワな日本人のための、ヤボな飲み物だと長年思い込んでいた。
ヤワだのヤボだの、いかにも酒飲み視点の傲岸かつ愚昧な物言いではある。しかし、下戸、つまり、アルコールを摂取した時に発生する有害物質アセトアルデヒドを分解するALDH2(アルデヒド脱水素酵素)を先天的に欠く人や、欠かないまでもその活性の弱い人が、人種でいうところのモンゴロイド、とりわけ東アジア、なかでも日本にはけっこうな割合で存在していて、一方、欧米やアフリカ、人種でいうところのコーカソイドやネグロイドにはまったく存在しないということを、どういう経緯だったかは忘れてしまったけど、とにかく知っていたので、ノンアルコールドリンクというものは日本独自……じゃないにしても、非常に日本的な飲み物だと長年思いこんでいたのだ。まあ、インスタント味噌汁とか缶コーヒーのような。あるいは、AKBとか乃木坂46?のような非常に日本的なアイドルグループ、成人式や入社式のような非常に日本的な儀式……その手のもののドリンク版だと。実際、海外では過去に一度も「ノンアル飲料」なるものを見かけたことがなかった。もっとも、ノンアル中毒になってからは一度も海外に行けてないし、それ以前のぼくは、何かに託けつつ次の一杯を求めて方々をさまよっている酒飲みだったので、そもそもノンアルなんて視界に入ってないのだが。たとえ網膜に写し出されていたとしても、脳で認識するには至らなかったのかもしれない。
日本人とか下戸とかに言及せずとも、ノンアルコール飲料とは、なんらかの疾患や老化による機能不全によってアルコールを嗜めなくなった人に向けて製造された、悲しき代替品だと思っていた。
そういえば、中年期までは相当な酒好きだった――今になって思えば、酒席でのおしゃべりが好きだったのだろう――母が還暦を過ぎたあたりから、もっぱらビールテイスト飲料を飲むようになっていた。既にぼくは酒神に媚び諂う男に堕していたので「おふくろもヤワになったもんだ」と内心思っていた。いや、思っていただけでなく、冴えないデザインが施されたノンアル缶がどうにも目障りで、こんなふうに言ったこともある――「可愛い息子が久々に里帰りしてるんだからさ、そんなヤボなものを飲んでないで、ちゃんとしたビールを飲みなよ」。そして、そのちゃんとしたものをグラスに注いで、煽って飲ませた。今にして思えば、れっきとしたアルコール・ハラスメントじゃないか。母さん、ごめんね。
思い違いだったことは他にもある。
断酒とは、長期にわたる、もしかしたら生涯続く、苦しみを伴う営為だと思い込んでいた。家族と医師、それから神様やその類いに誓いを立て、アルコールを欲してしまう楽しみの一切から身を引き、雨漏りのする教会の集会室とかで催される断酒会に通い、ぬるい番茶としけたお煎餅でその場を凌ぎ、昼夜を問わず襲いかかってくる孤独と退屈と虚無に耐え、やがては世を憚り、誰も読まない俳句を詠むことや誰も愛でないミニ盆栽を愛で育てること……等々から日々の慰めをかろうじて得、人生の真理を悟ったふりをし……しかし、心の奥のかび臭い小部屋では、酒飲み時代の思い出を少なからず改造しながらしつこく懐かしみ、おれはなぜこんな惨めな生を選んだのだろう、こんなんだったら酒で滅んだ方がマシだったんじゃないかとさえ悔やみ、悔やみきれずに妻と猫に隠れて蒐集した昭和のエロ本をめくっては身悶える、というような。
さて、2020年1月。そこに至る経緯は今回も割愛するが、ひとまずアルコールを口にするのをやめ、しかしながら、強炭酸水やジャスミンティに切り替えるような断固たる断酒は別の意味でヤワすぎるぼくには到底無理で、近所のスーパーマーケットで買ってきたヤボなビールテイスト飲料を「んー。あー。ま、アリっちゃアリ?」などと婉曲に腐しながら渋々飲んでいた時期、いわば、ノンアル中毒への移行期のことを思い出す。
ある日の午後、あるいは午前だったかもしれないが、ふと思い立って「Non Alcoholic Beer」と英語でグーグルの検索窓に入れてエンターキーを押してみたのだ。
そうして、現れた検索結果と、その後の何回かのクリックによって、我が視野は飛躍的に拡張し、脳内未来図の色調ががらりと変容した。勝海舟から世界情勢を聞かされた坂本龍馬のよう、というのは大袈裟だろうけど、目から鱗が落ちた、とはこんな時のための言葉かもしれない。
なんと、海の向こうにはこんなにも多くのノンアルコールビールが存在しているのか。いや、ただ存在しているだけではなく……ノンアルビール、ひいてはノンアル飲料はちょっとしたムーヴメントを起こしているようだった。IPAのノンアル? ノンアル専門のブルワリー? なになに……Sober Curiousだと?
ああ、そうなのか。酒なしで生きる、それはもう、忍耐とか苦行とか楽しみからの退却とかではなく、前進であり、解放であり、これからのヒップな流儀でさえあるのかもしれないのだ。そして、ノンアルとは悲しき代替品とか我慢の飲み物なんかじゃなくて、爛れかけている人生に瑞々しい幸福と充実とをもたらす、オルタナティヴ・ドリンクなのだ。
物事が動く時というのはこんなものなのだろうか。その他の事情もあれよあれよと重なり、時の急流にも心地よく飲み込まれ、その数か月後にはノンアル専門のECサイトを立ち上げ、あげくは馴染みのなかった街で飲食店をオープンし、現在に至っている。
酒飲みからノンアル中毒に転向したことで、生活……どころか、人生が激変した。だから、お酒をやめて何が変わりましたか?などと訊かれても、まごついてしまう。やめて確実に良かったし、二千万枚の五円玉やるから酒飲みに戻れと凄まれても、絶対に戻りたくない。それでも時には……そう、例えば、深夜のベランダで芳しい夜風に吹かれている時なんかに、酒をやめたことで失ってしまったかもしれないことを考えることはある。酒を介さなくなったことで疎遠になってしまった人のことを思い出したりもする。そして、言い知れぬさみしさを覚えたりもする。けれど、そんな時は、ハードボイルドの大家であるロス・マクドナルドが、当時はまだ新進のミステリ作家だったマイケル・Z・リューインに向かって言った(らしい)言葉を反芻することにしている。
――失われていくものにこだわらず、ひたすら自分の心を訪れるものだけに集中すること。
それにしても言葉って強力だ。ハヤカワ・ミステリ文庫『内なる敵』の訳者あとがきに、このくだりを見つけていなかったら、我がノンアル中毒の日々は、現在とはまたべつの様相を帯びていたに違いない。少なくともこのジン=Zineは存在していなかったような気がする……いやいや、Zine以前に、Cafe MARUKUだってどうなっていたことやら。
桜井鈴茂
【続く】
(本稿は2022年5月発行のZine「0.9 / zero point nine」(Second Issue)に掲載されたエッセイです。*このたびの再リリースにあたり、じゃっかん加筆しました。筆者)