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木村衣有子「のんある春秋」

食の文筆家・木村衣有子さんがノンアルコールの世界に足を踏み入れたのは、最近のこと。酒とその文化を長らく愛してきた木村さんが探る、ノンアルとの心地よいつき合い方とは――。多くの読者を惹きつけてきたその文章世界と、ノンアルコールの世界が、ゆるやかに邂逅するエッセイです。

            文・写真 木村衣有子

ノンアルと、器

『のんべえ春秋』というミニコミの編集発行人をしていた。書評、人物取材、エッセイ、酒場小説などの記事の中でも最も力を入れていたのは「酒器酒器大好き」というタイトルどおりの、酒器の取材記事だった。お酒の器について書く、というとき、一昔前のものにはコレクター探訪、たとえば高価な骨董自慢などが目立っていたけれど、そうではなくて、日用の酒器にふさわしい、大衆酒場に似合うような、たとえばちゃんとおいしい日本酒の一升瓶一本と同じくらいの値段で買えるものを紹介することにしていた。

 お酒を飲むためにつくられた器は、徳利に盃、ワイングラス、ビールのジョッキなどなど数多存在する。けれど、ノンアル専用のコップやグラスは、あるだろうか。私は寡聞にして知らない。

 ノンアルドリンクはあくまでもお酒の代用品だから、その器も、酒器を代わりに使えばいいや、との伝でいくと、ノンアルならではの独立した楽しみは生じづらいのではとちらりと思う。少なくとも、憧れをもってかたちから入る、との衝動はなかなか呼び起こされそうにない。それでもお酒を模してつくられた飲みものであるには違いないのだから、やっぱりそこは酒器で飲んでおこうかしらん。

 しかし、日本酒用の酒器は確実に出番がなくなる。酔いを共有する儀式的な、注いだり注がれたりの、相手の領域に踏み込み合うタイプのコミュニケーションはアルコールならではのものだからだ。アルコールを模した飲みものは、酌文化までをも引き継ぐことはできないのだ、よくも悪くも。

素面の時代?

 私が晩にお酒を飲むのを減らし、その代りにノンアルドリンクを嗜みはじめたのは一昨年の秋だった。それから少し経って、年下の男友達が断酒宣言をした。そう、その頃は、多くの本屋で、町田康『しらふで生きる』が平積みされていたこともあり、私はまた別の友達に「なにやら2010年代は「素面の時代」を予感します」なんてメールを書き送っている。今にして思えば、当たってないこともなかった。ある雑誌でノンアル小特集が組まれていたのも、同じ頃だった。楽しみにめくりはじめたものの、誌面には下戸ばかりが登場しており、がっかりした。下戸にとっては、ノンアルドリンク=おいしいジュースにすぎないからだ。元のんべえとしてはお酒らしさがどれくらい再現されているかが肝となる。そういう、こちらの欲望をかきたてるノンアルドリンクが飲みたい。
 元、と自称してはいるものの、ふっつりやめてはいない。感覚的には、お酒とは長いこと一緒に暮らしていたけれど別居した、そういう気持ちでいる。でも時たま話したり会ったりはする。嫌いじゃないから。

“輪郭”をなぞる。気持ちが動く

 お酒の代わりになる飲みものを探しはじめたきっかけは、病気にかかって入院し、手術後の2週間はお酒を控えるべしと告げられたからだった。でも、消化器系の病気ではなかったから、食べものの嗜好は変わらないし、変えなくともよさそうだった。お酒と共に口にしてきた好物はやっぱり好物のままに、退院して近所を歩いてみる。コロナ禍突入半年前、東京の居酒屋はなんのてらいもなく賑やかに営業していた。そこに身を置くためには、なにかしら飲みものも注文しないといけない。ノンアルありますか? と訊ねてみて「コーラなら……」「うちのノンアルは麦茶だよ」と返されたときには、どうしたものか、ちょっと躊躇してしまう。ノンアルビールは、ビールの輪郭をなぞっているだけあって、その場にしっくりくるのだとこのとき痛感した。けれど、注文するお客は相当少ないとみえて、どこにしまってあるか見つかるまで時間がかかったり、製造年月日がけっこう前の日付だったりするのはよくあることだとも。それも、今は昔の話ではあるけれど。ちなみに、大手メーカーがつくるノンアルビールはそうとうなマイナーチェンジを繰り返しているはずで、今飲むノンアルビールは、あのときのノンアルビールとは明らかに味が違っている。あと、アルコール分をなくすついでに、カロリー、糖質、プリン体までをもカットすることに注力していないもののほうがおいしく、ビールらしく感じられる。全てをゼロにする方向を別に目指していない私としてはそれでいい。ゼロついでにいうと、日本の酒税法上での「酒類」とはアルコール度数1%以上のものとの定義に甘えて、0.00%に固執しなくてもいいことにしている。0.5%で「微アル」を謳っているアサヒ「ビアリー」も私にとっては微でなくノンだと。
 正直、居酒屋では烏龍茶で通せるだろうとたかをくくっていたのは否めない。しかし、ペットボトルから注がれた冷たい烏龍茶をざわめきの中で口に運んでいると、浮かべた氷が溶けるのと同じスピードで、ものすごく虚しい気持ちになってくるのだった。日中に、ああ喉が渇いた、と路上で蓋を開けて飲むなどするペットボトル入りの烏龍茶には全くくっついてこない感情だから不思議である。そもそも、ウーロンハイというものがけっこう苦手だったせいかもしれない。ついでにいえばポットに入れた茶葉に湯を注いで飲む、一から淹れた烏龍茶はノンアルドリンクとしてそう悪くはないと感じられるという、これも不思議。
 お酒は、そしてノンアルも、「気持ちの飲みもの」なのだと思う。

「好きに飲みなよ」

 そんなこんなで2週間が経った。だからといって、さあ張り切って飲みましょう、それまでの世界に戻ろう、と、あっさり割り切れるわけでもなかった。
 これまで、お酒について書こうと頑張り過ぎていたんだ、もうお酒そのものについて書くために飲まなくてもいい。そういう方向に頭を持っていくことにした。すると、あえて買って帰って飲みたいくらいにそそられるお酒の種類はどんどん絞られていって、今ではワインのみとなっている。ワインはノンアルで再現するのが難しい飲みものだからかもしれない。
 そう、たまに飲んでみると、食事中に飲むお酒には、ふわふわした酔いの要素とはまた別のよさがあったと気付かされる。
 アルコールの特性のひとつとして、キレのよさがある。次の一口に移る合いの手をじょうずに入れてくれるような。
 アサヒスーパードライでなくとも、日本酒でも焼酎でももちろんワインでも、そういうドライさを享受していたのだとしみじみする。
 そのドライな感覚を補完してくれるのは、炭酸である。燗酒、焼酎お湯割りの代役は務めてもらえないのが玉に瑕ではあるものの。たとえば、アメリカの禁酒法時代にはシャンパンの代用として飲まれたらしいジンジャーエール、あるいはレモネードなどは、お酒というものの個性の一角を形成している、キレのよさと甘さと香りを持ち合わせていて、こちらをうきうきとさせてくれる。
 こないだうちで飲んでみたのは「福島の銘酒 大吟醸風味サイダー」で、あくまでも「風味」とあるのに納得する。味そのものやお酒の重たさの再現までは目指さないとの表明とも思えなくもない。あっ、これこれ、と言いたくなる香りがし、それを確かめるように飲んでいるとすぐ一本空いてしまう。嫌味のない飲み心地。
 サイダーを注ぐのは左藤吹きガラス工房の「居酒屋Z」と名付けられた、瓶ビールを注文すると一緒に運ばれてくるあのコップをイメージしてこしらえられたものだ。容量は180ml=一合で、手に持つとき、唇に触れたとき、ちょうどいい塩梅である。ノンアルもアルコールも等しく受けとめてくれる。私は今日は前者を選ぶよ、と告げても、好きに飲みなよ、と柔らかに肯定してくれているはず、そうだよね。

【プロフィール】
木村衣有子/きむらゆうこ
1975年、栃木県生まれ。書評と食文化を中心に、文筆活動を行う。『味見したい本』、『キムラ食堂のメニュー』、『コーヒーゼリーの時間』、『京都の喫茶店』など著書多数。「木村半次郎商店」を主宰し、『のんべえ春秋』や『しるもの時代 家庭料理の実践と書評』といったミニコミを編集・発行している。
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